
ブルーが基調のアルペンザルツのパッケージに、ひときわ目立つ赤いライン。描かれている、"Bad Reichenhaller"の文字。これは、バートライヒェンハルと読み、岩塩アルペンザルツの産地です。
バート・ライヒェンハルは、ドイツアルプスの麓の豊かな自然に恵まれ国定公園も有するベルヒテスガーデン地方にあり、古くから高級保養地として有名な場所です。バート・ライヒェンハルの、「ハル」は古代ケルト語で「塩」を意味し、「ライヒェン」はドイツ語で「豊か」を意味します。ちなみに、バート・ライヒェンハルから程近い、オーストリアのザルツブルクは、「塩の城」を意味しています。
古くからバート・ライヒェンハルを含む、ベルヒテスガーデン地方一帯には、塩を巡り長い歴史があり、都市の生誕と発展に大きく関わってきました。
バート・ライヒェンハルで塩が発掘され始めたのは、紀元前・石器時代といわれています。石器時代の人々は、ザールアッハ川岸の石を舐めている動物をみて、地下の宝物を発見しました。それは、水に溶けて地下から表面に出てきた岩塩でした。
岩塩が製塩され、交易が始まったのは、ケルト時代と言われています。6世紀に入り、バート・ライヒェンハル周辺にバァリア人が移住した後、塩は大変貴重なものとして交易に利用され、お金の代わりとしても利用されるなど、当時の経済にとって大変重要な役割を果たし始めます。
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毎年バート・ライヒェンハルで開かれる
塩の採掘人のパレード |
さらに7-8世紀に人々に広まったキリスト教は、バートライヒェンハルの製塩技術の向上と、塩の交易の発展に大変貢献しました。公爵テオド2世は、協会にバート・ライヒェンハルの岩塩鉱の1/3を寄付し、当時のキリスト教司教であった聖ルパートは、バート・ライヒェンハルの製塩設備の刷新、塩の交易システムを設備・発達させました。その大きな功績により、聖ルーパートは現在もなおバート・ライヒェンハルの守護者と崇められています。
ところでドイツ最大の州、バイエルン州の州都であるミュンヘン市が創設されたのは1158年のことで、その創設にはバート・ライヒェンハルの岩塩が深く関わっていたことをご存知でしょうか。当時、塩の交易路に沿って都市が発達し、ドイツアルプスのふもとを流れる急流、イン川・イザール川・レヒ川などにかけられた橋は関所のような役割を果たし、通行料として塩やお金が支払われていました。
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ハインリヒ獅子王
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1158年、バイエルン・ザクセン大公であったハインリヒ獅子公は、フライジング司教区のイザール川にかかる橋に火をつけ破壊し、そこから少し離れたミュンヘンのイザール川に新たな橋を建設するという暴挙にでました。当然のことながら、フライジング司教は激怒し、当時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサに争いの解決を求めました。フリードリヒ・バルバロッサは、新しい橋はそのままにし、ミュンヘンの税関で得た収入の1/3をフライジング司教区へ支払えという命令をハインリヒ獅子公に課すことで両者を和解させました。ハインリヒ獅子公の行為は多少手荒ではありましたが、皇帝により橋の存在は正式に認められたことになりました。ミュンヘンは、この新しい橋のお陰で人々が入植し、市場が作られ、貨幣も新たに制定されました。そのあと市壁も築かれ、発展を続けます。
その後も15世紀に至るまでバート・ライヒェンハルの豊かな塩をめぐり、バイエルンとザルツブルグの間には争いが絶えませんでした。(その後1815年ウィーン会議により、バート・ライヒェンハルを含むベルヒテスガーデン全域はバイエルン王国に併合されました。)
16世紀に入ると歴代のバイエルン公爵たちは、塩の交易独占をもくろみ、バート・ライヒェンハルの製塩設備の増強や製塩技術革新に取り組み、バート・ライヒェンハルの塩業は発展していきます。1816年にバイエルン州の塩の独占販売が廃止されるまでの約200年間、バート・ライヒェンハルで取れる塩はバイエルン州の収入源でした。
現在バート・ライヒェンハルを含むベルヒテスガーデン地方は、国定公園に指定され、豊かな自然が保護されつつ、岩塩の採鉱が今も尚続いています。現在、アルペンザルツの製造元であるズードザルツ社は製塩技術革新に取り組み、ドイツの食卓塩のトップシェア(70%)を誇っています。 |